地下鉄サリン事件から30年。あれは1995(平成7)年3月20日、早朝だった。警視庁正式名称「地下鉄構内毒物使用多発殺人事件」(国外名称=Tokyo Sarin Attack)。犯人は麻原彰晃(本名・松本智津夫)を教祖とする宗教団体オウム真理教の信者だ。死者14人、負傷者6300人。折悪しくラッシュアワー。あれこれ因果関係を持たれ方が少なくないと思う。実はこの私も、どうしても心に隅に遺って消せない巡り合わせがある。もちろん、被害者ではない。偶然にも、ある現場で事件取材を体験することになったのである。
当時、私の日課は、埼玉県の大宮駅からJR上野駅経由で午前8時半ごろ地下鉄日比谷線に乗り換え、勤務先のある日刊スポーツ新聞社(東京都中央区築地3の5の10)の最寄り駅である築地駅に下車することだった。ところが、月曜日のその日、上野で日比谷線に乗り換えようと思ったら、急きょ運転見合わせとなり入場できない。やむを得ずJR山手線(京浜東北線?)を利用して有楽町駅で下車。通称聖ルカ通りを10分ほど歩いて、午前9時20分過ぎになんとか出社できた。実のところ、その時点では、運転見合わせの理由がよくある人身事故や電気系統の故障などではなく、「なんらかの事件らしい」とは耳に入ってはいた。ただし、正確なところは解らなかった。
そして、午前9時40分ごろ、その私は、築地本願寺にいた、
「大丈夫ですか!」
「どうしたンですか? 」
「しっかりしてください!」
私は、我を忘れたように大声で叫んでいた。地下鉄日比谷線築地駅1番出入口から救急隊員によって助け出された被害者とおぼしき人たちが一人、また一人と正門から境内に運び込まれていた。そして、入ってすぐ左の芝生に敷かれたブルーシートの上に横たえられ、応急手当てを受けていた。
「まだかッ! 救急車は!!」。救急隊などから怒号にも聞こえる指示が喧しく耳に届く。そこはまさに戦場のようだった。頭上では取材と思われるヘリコプターが旋回して轟音を響かせている。救急車や消防車、そしてパトカーが道路いっぱいに並んでいる。緊急灯が激しく点滅する。そんな中で私は、制止線を越えんばかりに身を乗り出して被害者に取材コメントを求めていたのだ。被害者はどなたも、阿鼻叫喚などという通りいっぺんの形容などでは憚れるほど、重篤な方ばかりだったと考えられる。問うのは自由だが、彼らに声など届くわけもない。ややあって、我に返った私は、大声どころか、言葉を発することすら躊躇っていた。動揺していた。時間は20分か30分か…、救出された方は10数名か20数名か………記憶はあやふやだ。ただ、ほとんどが背広にネクタイ、革靴などのいわゆるサラリーマン然とした方だったことは、今もなぜか鮮明に覚えている。
自分がなぜそこにいたのか? 説明が後回しになってしまった。出社したのが9時20分過ぎ。まさに現場と一筋違いの八丁堀寄りにある聖ルカ通りを歩いたので、その喧騒は遠からず伝わってきたように思う。しかし、何事かをしかと把握しないまま社屋に入った。「一体、何事なんだ?」。早速、テレビのスイッチを入れた。そこには、空撮だったと思うが、まさに現場の日比谷線築地駅や築地本願寺などの慌ただしいさまが映し出されていた。
「そこだゾ!!」「まさか?」「何なンだ、これッ!?」
今まさに、足元で事件が起こっている。誰しも野次馬心理を少なからず刺激される。しかも、私の場合は記者生活も長い新聞社々員だ。いわゆる〝ブンヤ〟の習性をも呼び覚まされた。そして〝お家の事情〟も頭をよぎった。日刊スポーツというのは朝刊紙、いわゆる〝アサカン〟だった。編集制作部門の業務開始時間は通常なら昼前後で、早朝から出社する者などまずいない。「たとえ現場は地元でも担当記者が駆け付けるのは遅くなるだろう」。そして反射的に思った。「遅れは取れない!」
実は、当時の私の職責は広告局次長、所属は新聞社でいう業務部門で、正確には編集部門ではなく、記者ではなかった。だが、その3カ月前までは東北支社長、そのまた1年前までは編集局次長兼運動部長、そして、この年の異動で局次長兼特報部長として再び編集には戻っている。つごう、ほぼほぼ編集一筋の30年だった。
「ヨシッ! 担当記者が来るまで俺が」。昔取ったきねづか。躊躇うことなく決断する。そして、引き出し奥にしまっておいた記者証明書とバッジ(いずれも場違いの「東京運動記者クラブ」のものではあったが…)取材手帳、カメラなどを取り出し、現場に急行した。もちろん、現場の周辺は既に幾重にも立ち入り禁止規制が敷かれていたはずだった。ところが、我が社屋は、現場の築地本願寺北門が目と鼻の先にあった。浮足立ちながらも、難なくスルーできた。
しかし、しばしあって我に返った私は、ゾッとした。「もし、あの電車に乗り合わせていたら?」。それまで無我夢中だった取材行動のちょっとしたすき間で、自分が紙一重で遭遇を免れた現実を思い起こしたのだ。ほんの10分か20分の〝時差〟で事件に遭遇せずに済んだのだ。だからと言って、「幸運だった」「危なかった」などと喜ぶようなことでもない。まさに、一寸先は闇……。しばし茫然、いささかならず怖気立った。寒気もした。冷や汗も出た。今まで体験したこともない言いも言われぬ複雑な思いが駆け巡った。そして、これまで体験したことのなかった荷重さに押しつぶされそうにもなった。
もちろん、その時点ではまだサリン・テロとは認識できてはいない。それは、偶然のなせるわざで何の予見もなくあの現場に飛び込んだ私のような者の「歴史的大事件」の予感だったのかもしれない。
見渡したところ、報道者はどうも私一人のようだった。そんなこんなでついつい引いてしまう自分を何とか奮い立たせて取材を続けた。後で解ったことだが、警視庁オペレーションで当該の事件個所である「中央区築地3の15の1」の周辺5キロメートルが8時25分時点で、さらに6キロメートル圏内が8時27分時点でG(ゲリラ・テロ)警備態勢となり、8時57分には警備用語では甲号と言う最大動員態勢に突入している。出入りの規制は厳重だったに違いない。そうでなくとも、初報は午前8時10分だから各社で〝泊り番〟などで待機中の記者ならともかく、通常であれば自宅から駆け付けることになる。現場に届くにはそれ相応の時間もかかる。偶然とはいえ、どうやら私には〝一番掛け〟のアドバンテージがあったということになる。
しかし、警察無線交信記録を詳細に聴いて初めて納得できたことだが、築地の現場は、以下のように事件発生1時間余で速やかにピークアウトしていたようだ。
<8時21分> 「地下鉄日比谷線八丁堀駅、病人2名、気持ちが悪くなった者2名。同じく茅場町駅でも4名収容」
<8時24分> 「地下鉄日比谷線築地駅、現在電車が止まっているもよう。ガソリンをまいたような臭いがするが、詳細は不明」 「神谷町駅。シンナーの臭いのようで病人が出た」
<8時25分ごろ> 「築地本願寺前、ガソリンのように臭い、人が倒れていて、救急車が到着」
<8時27分> 「5キロ圏内警戒態勢を発令」
<8時31分> 「中央区内、上下線全面ストップ」「事件現場を<築地3の15の1>と特定」 「新聞紙に包まれた湿った液体であったもよう」
<8時35分> 「鑑識要求」 「神谷町で23人気分悪い」「小伝馬町歩道上に倒れている」「小伝馬町男女50人収容」
<8時38分> 「築地。40人くらい倒れている」「聖路加病院に搬送」「築地署長が指揮中」「50人収容」
<8時44分> 「人形町から不審物を発見」
<8時45分> 「八丁堀から乗客が不審なものを発見し蹴り出したもよう」
<8時53分> 「マルメ(目撃者)からの情報で、新聞に包んだ液体があった」「小伝馬町あたりで蹴り出したもよう」「満員の中目黒行き電車」「何者かが落とした」「満員で身動きが取れない中で起こった」「北千住駅7時48分、築地駅着8時08分予定の上り線電車」「20~30人が口や鼻から血を出して呼吸困難に陥っている」「防毒マスク使用!」
<8時57分> 「全体G(テロ)配備」 「霞が関駅から不審物2個。網棚の上に。駅長室に搬送」「新お茶の水駅で液体が流れて気分の悪い人が」
<9時02分> 「八丁堀駅。全部駅から出した」「受傷事故防止に留意」「北千住寄りの先頭部分に」
<9時10分> 「麴町駅で鑑識課員1名負傷」
<9時15分> 「築地56名収容、うち21名を聖路加病院に搬送」
<9時26分> 「八丁堀は田島病院、順天堂、神田前田病院……」
<9時34分> 通信、途切れる。
私が日比谷線築地駅の現場に隣接した築地本願寺に駆け込んだ9時30分前後には、多くの被害者が、近くにあった中央区明石町の聖路加病院などに搬送、収容されていたのだ。少なくとも被害者救出のヤマ場は越えていた。
そこからは、私も目撃した当局の果断で機敏な対応が、うかがい知れる。
聖路加病院は昔の築地川上にできた公園を挟み勤務先の日刊スポーツ新聞社とはお隣同士である。ご近所の誼で何かといえばお世話になっていた。だからというわけではないが、今も語られるサリン事件における聖路加病院の〝神対応〟ぶりを書き添えておきたい。
当時の病院長の故・日野原重明氏は、8時16分に東京消防庁からあった「地下鉄日比谷線茅場町駅で爆発火災が発生した」との一報に、「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」と指示、無制限の被害者受け入れを実施して、当日で患者数640人、その後、1週間で延べ1210人を受け入れている。しかも、病院はかねてから大量傷者が発生した場合でも速やかに受け入れられるように設計されていたともいう。
容易に対抗すべくもない殺人ガス・テロに、「救命」で一矢を報いてくれた。あらためて感動、感謝してやまない。
現場は「築地3の15の1」。「築地3の5の10」にある日刊スポーツ新聞社とはまさに〝ご町内〟だ。しかし、頼みの助っ人記者はまだ来ない。あくまで現場が第一とそのまま築地本願寺で取材を続けた。
首謀者は? 凶器は? 規模は? とにもかくにも、事件の核心に迫りたい。
ややあって、「宗教集団の仕業らしい…」「毒ガスだそうだ」「都内全域同時テロだ!」。断片的な情報が口の端に上ってくる。とはいえ、現場だからといって、関係者の多くが必ずしも核心をつかんでいるとは限らない。誰もが総動員令の中で自らとるべき対応を続けているだけで精いっぱいだ。ましてや何のお役にも立たない私など、ただの部外者だ。
おそらく、この時点では現場の我々より、特番で報道するテレビやラジオを見聞きしていた人の方が、ずっと的確な情報を知り得たはずだ。
ちなみにだが、報道記録によれば、事件を最も早く速報したのは日本テレビの「ルックルックこんにちは」で午前8時30分。その後、8時42分にテレビ朝日「スーパーモーニング」がお天気カメラに絡めて最初の映像を流している。そして。午前9時台に入ると一斉に特別番組放送態勢に入った。
こうして、核心どころか、概要も掌握しきれないままに、時が過ぎる。徒手空拳。悔しい。これまた、今にして思うのだが、もし、携帯電話、スマートフォンなどが当たり前にあったら局面は大きく変わっていたに違いない。しかし、当時は私が勤務していた新聞社などは外出の際にはポケベル携帯がほぼ義務づけられてはいたものの、携帯電話はズッシリ重いショルダー型が緊急用に数台あるだけだった。頼みは依然として公衆電話。まだまだアナログ時代真っただ中だったのだ。
そうこうして、午前10時半ごろだったろうか。築地本願寺の晴海通りに面する南門から一人の報道関係者と思われる人影が見えてきた。近づくと顔見知りの当時、読売テレビなどで芸能ニュースなどを担当するリポーターの石川敏男さんである。一瞬、10年の知己にでも出会えたようでホッとした。「石川さん!」。「ああ! どうも。早いですね!!」。さっそく情報交換に入った。とはいえ、私はもちろん手元不如意、石川さんも駆け付けたばかりで断片的な情報しか持ち合わせていないという。いずれにしても真相をつかみ、次なる行動に出たい。手分けしてまた取材を続ける。そのうち、何らかの情報を得たのか、石川さんの姿は見えなくなった。
また、一人ぼっち……。「でも、おまえは築地本願寺に一番掛けしたンじゃないか!! それが地の利だろうと、偶然だろうと、ドーンと胸を張れ、現場を死守しろ!」。ぽっかり空いた胸の内で、柄にもなく自らを叱咤激励する。
そんな時、午前11時過ぎ、だった。誰かが、大仰に声を上げた。
「サリンらしいぞ!」
11時に警視庁が発表したらしい。サリン? それが、9カ月ほど前の1994年6月27日に起こった松本サリン事件で神経ガスの猛毒として使われたことは断片的には聞き及んでいた。だが、恥ずかしながら半可通だった。「ナチス、ヒトラーが作った」「封印されていた大量殺人毒ガス兵器」━「公共交通機関を狙った大都市テロだ!」等々、誰言うともなしに、一言ごとに、おどろおどろしく、怖気立つような情報が飛び交い始めた。
私も、それらに、あの苦しんでいた20人余の方々の表情を重ね合わせると、あらためて胸を抉られるような悲愴な思いに苛まれた。
「大変だ! 大事件だ、これは未曽有のテロだ!!」
そこへ、待ちに待った社会部担当のM記者が駆けつけてきてくれた。当時の日刊スポーツ新聞社にはスポーツ紙業界では初めての社会担当の部署があり、マル暴や政治まで扱っていた。実は私も立案者の一人で、当初は責任者も務めた。
「齋藤さんがなぜここに?」。M記者は驚いた様子だった。
無理もない。記者でない私が、誰からも取材の指示など受けてもいないのに、早々と現場入りしていたのだ。M記者には手持ちの情報を伝えた。そして、聖路加病院へ向かうようアドバイスした。は、その場の最終チェックに入る。境内は1時間ほど前の壮絶さが嘘のように穏やかさを取り戻しつつあった。各社の記者が入れ代わり立ち代わり現れ始めた。だが、誰もがネタにならないと見て取ると、たちまちどこかへ風のように去って行った。
役目は終わった。
私も社屋に戻る。飛び出した時には誰もいなかった広告局フロアに、何とか出勤できた同僚たちが、あちこちにグループをつくり、事件の話で盛り上がっていた。いつもは代理店やクライアントと営業話に終始している電話のやりとりにも、「サリン」の声が飛び交い、いつもは点けたこともない複数のテレビが特番を流し続けていた。そんな中で、私は、現場に出向いていたことなど全く口にしなかった。何も〝だんまり〟を決め込んだわけではない。なぜか、なんとはなしに語りたくなかったのだ。
私のいた業務部門は別棟にある編集部門とは50メートルほど離れている。急いで駆けつけて何らかお役に立てばとも思った。しかし、現場には一番掛けしたが、特段の取材成果を持っているわけではない。顔出し、口出しは控えた。常に情報の洪水が押し寄せ時間に追われる編集局は、降ってわいた〝地元〟の超大事件にてんやわんや、右往左往、さながら火事場のようだったに違いない。とんだお邪魔虫になりかねない。遠慮が先にたった。
案の定、編集から何の声もかかることはなかった。
動揺を静められないままに見入ったテレビの前で、私は、さらに動揺していた。現場の周辺取材で目撃した事件がどれほど重大で深刻なものなのかが、より強烈な実感で迫ってきたからだ。築地の点が首都圏全域の線に繋がっていく。当初の予見などどこかに吹き飛ばされてしまうほどの事件は拡大し、知るほどに、脅威と憤怒が大きく膨れ上がっていく。卑劣、残酷、残忍、あまりにも人道に反する。いかなる動機も肯じられない。断固、許せない。取材で垣間見た現場のトラウマが拍車をかける。もうどんな言葉や表現などでも抑え切れないほどに、怒気が天を突く。
当初は、それなりに気持ちの整理をつけ、仲間内から要望でもあれば、「新聞社員の本分を尽くして(記者の立場にはなかったが)一番乗りで取材した!」とヒロイスティックに目撃談をひけらかせてやろうなど、と思わないでもなかった。だが、いつしか、「そんなバカなことが許されるわけもない!」と忌避する自分に変わっていく。
思えば、私の行動はいささか自信過剰で衝動的に過ぎたのかもしれない。ご存じの通りスポーツ紙の基本的な売りは、あくまでエンターテインメントだ。この種の事件ものは大きく枠外にあった。とはいえ、NHKテレビ草創期の人気ドラマ「事件記者」が大好きだった私などは、むしろ、事件ものに漠たる憧れを抱き、マスコミ志望の動機の一つにもなった。それだけに、同僚が嫌がるその種の取材を「喜んで」引き受けることが少なくなかった。おかげで〝勇み足〟も多く、よく紙面トラブルも起こした。
時に、何台もの街宣車で押しかけてきた戦闘服に身を固めた強面の団体と何時間も押し問答した。数度ある。時に、先鋭な思想集団から「今夜、殴り込むゾ!」と予告されて社前に覆面パトカー、編集局では私服警官に守られながら徹夜した。幸い、笑って朝を迎えられたが、肝は冷え切った。いわんや、いわゆるマル暴を初めとする抗議や嫌がらせは日常茶飯事で、名誉棄損等の内容証明を送りつけられたことは数知れない。
いつの間にやら、「修羅場屋」を自称し、人様には「トラブル男」などと揶揄されもした。それほどの度胸や向こう見ずさを持ち合わせていたわけではない。ただ、生業とあれば開き直れるのが取り柄でもあり、欠点だった。よく〝不穏〟無事だったものだ。今にして思う。
そんなこんなで、さまざまに悔恨が過った。前後の見境もなく猪突猛進しなければよかったのかもしれない。義務感と言えば聞こえはいいが、誰に命令、指示されたわけでもない。気負いが先に立ったか、あるいは、ちょっとした一番乗りなどという功名心がどこかにあったのだろうか。そうだとしたら、臆せず、堂々と、あの目撃談を、「生々しく」書いておけばよかった。
悔恨といえばもう一つ、この際なので白状させていただきたい。実は、ある時期まで、健康被害と言う臆病風にも吹かれていたのだ。サリンの猛威は直接被害だけでなく、さまざまな状況から罹患する二次受傷も少なくない。駅員、救急救命員、消防士、警察官、医師、看護関係者などから、被害者を搬送したタクシー運転手や通りすがりに被害者を救済した方々まで……サリン(通称GB,学名イソプロピルメチルフルオロホスホネート、あるいは,メチルフルオロホスフィン酸イソプロピル)は、あのヒトラーも使用を決断できなかったと伝えられるほどの人間絶滅兵器だ。症状も多岐多様。発症期もさまざま。あれこれ考えると、正直、気になって仕方なかった。
実はあの日、帰宅後、仕立てて間もないダブルスーツを初め、シャツやネクタイ、下着、ハンカチーフ、そして取材手帳まで、我が身ぐるみすべてを剥いで焼却処分している。家族は何事かと驚いていた。今にして思えば、やむを得なかった。
もちろん、全ては杞憂だった。フレイル気味ながら無事に八十壽も迎えられた。
ともあれ、偶然だったにしろ、あの未曽有の地下鉄サリン事件の現場取材に立ち会えたことは、言い方は不遜かもしれないが、いかに念じてももたらされることのない「記者冥利に尽きる」ことだった。だが、以来30年、自分の記憶の中に何となく凍結してしまった。けっして封印などしたつもりもない。自ら話すこともなかった。当然ながら、人から聞かれることもなかった。ただ、それだけのことだ。それなのに、いつのまにか事件の悍ましさが心奥で膨れ上がって、蟠(わだかま)りのようなものになり、今に至ってしまった。
ところが、あれほどのことが今や風化しかねない風潮も出てきているという。何事も移ろいやすい近ごろだ。それが時の経過というものだと言えばそれまでだが、気掛かりで仕方ない。それなら、この際、曖昧模糊な煮え切らない自分に思い切って区切りをつけたい。そんな思いから、機会を得て、拙文を書かせていただいた。
つきましては、せっかくの紙幅を頂戴したので、是非とも畏敬してやまないるお二方にも触れさせていただきたい。
まず、お一方は、永野貴行(ながの たかゆき)さん。1992(平成4)年政経学部を卒業され、現在はさいたま市浦和区で弁護士法人ながの法律事務所を経営されておられる。実は、永野さんのスタートは私とご同業で、読売新聞東京本社に入社された。そして、3年目の1994年に松本支局に赴任され、県警担当としてあの松本サリン事件の取材に関わっている。そして、各紙が横並びで第一発見者の河野義行さんを犯人視する報道に疑問を持ち、河野さんを単独取材するなど多角的できめも細かい取材を重ねた。そして、ついには「河野さんは犯人じゃない」との独自記事を全国版で報道して、大反響を巻き起こした。世論の流れも変えた。
しかし、永野さんは、「警察が親亀で、自分たち記者は、その上に乗る子亀、こういう構造である以上、同じことが起こる」と、記者という生業に疑問を持った。2年後、辞表を提出する。そして、志も新たに弁護士を目指したのだ。そして、雌伏9年。司法試験に落ち続けること7回、ついに8回目のチャレンジで道を開いた。
信条は「極力、当事者と会うこと」。松本サリン事件取材から得た教訓であったろう。そして、けっして付和雷同しない不屈の精神の持ち主でもある。まさしく記者の本分に叶う。その凛とした姿勢の源には、「権利自由、独立自治」の明治大学魂があるように思う。敬意を表したい。
そして、もうお一方は言わずと知れた大先達だ。時の第81代内閣総理大臣の村山富市先生である。村山先生は、破壊活動防止法の適用を了承され、麻原らの逮捕につなげ、宗教法人法に則ってオウム真理教に解散命令の断も下された。
村山先生には10年ほど前、ホームカミングデーの記念プログラムにご登場いただくことになりインタビューする栄を賜った。その際に、地下鉄サリン事件に触れ、私なりに御礼を申し上げることが出来た。先ごろ百寿を迎えられた。久しくお会いしていない。弥栄を祈りたい。
過日、久方ぶりに築地本願寺を訪れた。知人のコンサートのためだ。会場の本堂にはかつて、地下鉄サリン事件の落命者の霊を慰めに、よく立ち寄った。正門を入って左角に新しくできた瀟洒なカフェで感慨を新たにする。ふと、見遣ると、あの被害者たちが横たわっていた芝生があった。30年前のあの日は、確か、茶色がかっていた。この日は季の恵みで鮮やかな緑一色。ひととき、心が和んだ。
通読、感謝。
*サリン事件及び関連する警察無線記録などはGoogle検索情報を参照させていただきました。